時間と幸せの作り方。

文明の発達は、人間の動物としての機能や能力を退化させると思っています。文明とはつまり「利便性」です。「利便性」は、人間の機能の何かを代行するものです。
歩く代わりに自動車に乗る、記憶する代わりに写真に撮る、録音する、書き留める、書く代わりにパソコンで打つ。その結果、足腰は弱くなり、記憶も悪くなり考えることをしなくなり、漢字が書けなくなっていたりします。
大昔、文明がなかった頃はすべて人間の機能と能力でやっていたわけです。その分、時間もかかったり、命を落としたりということはあっただろうけど、人間そのものの能力は鍛え続けられていたのだと思います。
今から100年以上も前に建立された見事なまでの寺社建築や芸術品などを見ると、そういう失われた能力の輝きを感じるような気がします。

現代社会は、文明や近代社会の仕組みが発達することで作られていますが、それが人の幸せにつながっているのかと言えばはなはだ疑問です。

資本主義の仕組みの中で1%の人が99%の富を得て、99%の人は利益や成長と言った呪文の元に人生の時間を過酷な労働につぎこみます。

昔は、不便で危険だけど人生の時間はある、今は便利で安全だけど時間がないという状態なのではないでしょうか。
もちろん、その時間が必ずしも幸せにつながるとは言えませんが。

しかし、上記のような矛盾というかやるせなさは、無意識のうちに誰もが抱えているはずです。おそらく本能で分かっているのです。

そういうことに気づいて是正していこうという動きもたくさん出ています。
文明を排除した自然の中での暮らしや有機農業、ミニマルスタイルなど、しかもそういったことを実戦しているのが、昔を知らない若い世代というのも興味深いことです。彼らは、本能的に「違う」と感じているのでしょう。

そういったアンチテーゼは、社会の仕組みにも現れています。
その一例がグーグルの「頑張らない働き方」でしょうし、 佰食屋の経営方針(一日百食しか販売しない)でしょうし、ZOZOの「嫌なことはやらなくて良い+6時間勤務」でしょうし、「パートがいつ来てもいつ帰ってもいい」大阪のエビ工場でしょう。今までの概念の真逆です。しかし、それで成功しているわけです。

人間は、慣れと既成観念に騙されます。「そんなものなのだ」と思ってしまうと思考停止して、自分の疑問を押し殺してしまいます。
その結果、無意識のムダや苦難を見過ごし、それに耐え、人生の時間をムダにしてしまいます。

時間は、すべての人に平等です。どんなにお金持ちでも1日は24時間しかないのです。しかも、いずれは妥当な年齢で死にます。
時間が幸せにつながるのかどうかということも、価値観のひとつなのかも知れませんが、与えられたひとつの体と心、1日24時間は、すべての人に平等です。
それ以外のことは、いろいろな理由で差違や不公平が生じます。そう言う意味では、体と心、時間をいかに自分の好きに使えるかというのが幸せにつながるのではないのでしょうか。

それに「頑張らない」と言っている企業が成功し、「頑張っている」企業が苦境に立たされている現状をよく考える必要があります。

慣れと既成観念に縛られている現状を見直してみる必要はあると思います。

真実を見極める目。

世の中には、まことしやかに意図的に流される情報や無意識にあるいは無頓着に(無責任に)流される間違った情報も多くあります。

同じ物事についてまったく相反する情報もあったりします。そうなるとどちらが正しいのかは自分で判断するしかありません。
あるいは情報そのものを一時的に判断できない場合、誰かの判断に頼らなければいけませんが、それを判断評価している人の話、つまりその人がその情報について信用できる人なのかどうかを判断する必要があります。それはつまるところ自分です。

ものごとは「水は低きに流れる」のが基本です、低きに流れていない場合、どこかにカラクリがあるわけです。やっかいなのは、低きに流れているかどうかも分からない時もあります。つまり、流れ出す場所と流れ着く場所が特定されていないときです。流れていると言うことだけがわかっていて、場所がわからない、そんな情報もあります。

例えば、何かが売れていると評判だという情報があるが、どこで誰に売れているのか、いつ売れているのかが分からない。漠然と売れているという情報がある場合。まず、それは本当なのか?と思います。どこからの情報なのか?なぜその周辺の情報がないのか?などと、つっこんでいけばいろいろ不明点が出てきます。

逆に、オフィス街でビジネスマンに売れているという事が分かったら、何故売れているのか?ビジネスマンと言ってもいろいろいる。どんなビジネスマンが何のために買っているのか。それが分かった時点で、なるほどと思う場合もあれば、え?なぜ?という場合もあります。そのように、その背景を詳しく詳しく追求していかなければ真実は見えません。

いかんせん、人間は先入観にとらわれて、なぜ?なに?を忘れがちです。

今、新型コロナの情報が毎日マスコミで流されていますが、よく考えるとおかしな事があります。
毎日天気予報のように「感染者数」が報じられ、それに一喜一憂して危険だとか第二波だとかという風に振り回されていますが、あの「感染者数」はまったく意味がない数字です。
なぜなら「検査数」が毎日異なるからです。全国比較にしても課調査数や調査条件もバラバラです。あれは単に「今日、分かった感染者数」でしかありません。つまり国民に対する比率も定量的な推移もまったく分からないものです(感染者数の中の死亡率には意味があります)。

それは、感染症の専門家も言っているし、例えば東京都の小池知事自身が「これは、検査数が増えたために増えた数字だ」と言っています。そんな数字を発表する意味があるのだろうかと思いますが、その数字に世間は一喜一憂しています。おかしくないでしょうか。一喜一憂する必要のない数字です。当初から、まったく意味のない数字だとTVで言い続けている専門家もいますが、おかしなことにその声はまったくとりあげられません。

これは、世間が「お上の言うことは正しい、うそがないはずだ」という先入観というか固定観念にしばられているため、その数字の根拠を疑おうとしないし、「これは、検査数が増えたために増えた数字でもある」という話も耳に入っていません。
疑いを向けるマスコミがいないことも不思議です。

また、新しい生活スタイルとして「マスクをしてソーシャルディスタンス」と提言されていますが、マスクをすればソーシャルディスタンスは必要ないはずです。なぜなら新型コロナは飛沫感染であり、空気感染ではないからです。またしゃべらない(つまりはツバを飛ばさない)のならマスクもソーシャルディスタンスも不要なはずで、これは感染症の専門家もそう言っているし、よく考えると小学生でも分かる理屈です。

しかし、世間はそこをうたがわず盲目的に「マスクをしてソーシャルディスタンス」を実行し、劇場や映画館、飲食店の経営をどんどん悪化させています。そもそもそんなことがお上から提言されること自体おかしいのですが、まったく非論理的(非科学的)な情報がまかり通っています。このまま行けば社会は破綻してしまうかも知れません。(余談ですが、その割りに何かというとエビデンスは?なんて裏付けを要求したりする人がいたりします)

このウイルスの沈静化は、専門家が口を揃えて数年かかると言っています。そんな長期にわたって劇場や映画館、飲食店が「マスクをしてソーシャルディスタンス」を続けて経営がなり立つわけがありません。そこも疑われません。
誰かに聞かなくても「マスクをしてソーシャルディスタンス」がおかしいことは理屈を考えると分かります。

なぜ、思考停止になってしまっているのでしょうか。分かっているけど無難にやりすごそうとするからでしょうか。それで済めば良いですが、実際老舗のブランドを始め多くの企業が破綻し始めています。
真実を見極めて、真実に従って行動しないととんでもない方向に舵を切ってしまいます。

あまりにも効率が悪すぎる新型コロナ対策のガイドライン

行政から新型コロナ対策のガイドラインが示されていますが、その多くが実際問題として事業としての収益性を考えるとやっていけないレベルではないでしょうか。多くの人がそう思っているにもかかわらず、アクリル板の需要は増加しています。

専門家からも大袈裟すぎる、そこまでしなくても良いとの指摘もありますが、世間の空気がそれを許さないところがあります。

とにかくそれをしなくては事が進まないとやっていうる人もいれば、本当に感染を恐れてやっている人もいるでしょう。「正しく恐れる」とかなり前から言われていますが、現状は層はなっていません。過剰に恐れている状態ではないでしょうか。

行政からそのような過剰なガイドラインが出ている理由のひとつには、責任問題があるのでしょう。日本では何か起こると、その本質的な原因ではなくまず誰の責任かという話になります。そのため、逆効果で責任の所在が分かりにくかったり、責任か被らないような過剰な対策になったりします。現状のガイドラインは、0コンマ何分の1かの感染確率に対して、それをゼロに近づけるような対策です。あまりにも投資効率が悪すぎます。

営業店の方ももし感染源になると風評被害も含めて・・・・と思うから過剰な対策をせざるを得ません。

緊急事態宣言期間に自粛していたのは、感染者が爆発的に増えそうな状況で医療崩壊を防ぐためです。極端に言えば、感染を広げないことより、医療崩壊を防ぐことの方が大事だったからです。もちろん、感染拡大防止が医療崩壊も防ぐのですが。

感染者が爆発的に増えない、もしくは増えておらず、医療体制に余裕があれば、少々の感染者がでても対応できます。今(6月初旬)は、その状況になりつつある、あるいはなっていると言うことなので、緊急事態時とは少し違います。

感染者を出さないようにする事はもちろん重要ですが、その対策にどれだけの犠牲を強いるかという面で、現状は犠牲が大きすぎる状況になっています。
この状態は、続かないでしょう。劇場や飲食店が、4分の1の席数で収益が上がるはずがありません。アクリル板越しの接客などもいまは、ご祝儀で来てくれるお客さんも居ますが、そのうち減るでしょう。楽しくないからです。ほとんどの劇場や飲食店は、楽しさが売りです。そこを犠牲にして成立するはずがありません。
しかし、とはいえ、どうしようもない現状があります。だからといってそのままずるずる収益性のない状態を続けられるものでもありません。

いろいろな場面で、業態が変動しています。従来の営業形態は、様子を見ながら戻していく(いつかは戻るでしょう。しかしいつなのかは見えません)ことを考えながら、異なる商売のやり方も実行していかなければなりません。

オンラインを使ったやりかたは、やはり接触がないという面で、もっとも利用しやすい形態です。オンラインで売るだけでなく、情報提供によっても可能性が生まれるかも知れません。
オンライン利用になれてきた消費者は、以前よりも生活の意識の中にオンラインがあると思います。いままでオンラインでの取り組みがあまりされていない会社こそチャンスがあるかも知れません。

幸せ観の再定義?

破竹の勢いで成長した人気飲食チェーンの成長が鈍化、低迷しているというニュースが流れ、その原因はというと、案外単純で、マーケットが飽和状態になっているといいます。
企業は、今までのマーケットの感覚の加速度で成長イメージを描いていたけれど、実際はもっとブレーキがかかるということではないでしょうか。これから、こういったズレはいろいろなところで出てくるのではないかと思います。

人間はどうしても過去の感覚にとらわれてしまいます。住宅の分野でも数年前から供給過剰といわれ、都内でさえ賃貸の空き室率が33%だと言われながらも都市部ではあちこちでマンションが建設され、数年後が懸念されています。
ブレーキのかかる情報が充分出ているのになかなかブレーキを掛けることができません。人間は、まだいけるのではないかと思うからです。
しかし、若い世代では、過去の経験がないからか、そう言う時代に素直に素朴に向き合う人がでてきています。

「売上を、減らそう。」という本で話題になった飲食店の経営者は、象徴的です。この例だけでなく、大阪の「好きなときに出勤して良いエビ加工工場」や「嫌いなことはしなくて良い」というZOZO。古いところでは「ホウレンソウ」を禁止した未来工業。
人口減少と直接関係があるわけではありませんが、要するに発想の転換というか、過去の経験にしばられないというじなやかさです。

成長して売上をあげて給料を上げて、その先に幸せな人生があったのか?という問いをなげかけているのではないでしょうか。
今までの「幸せ観」自体が形骸化したイメージなのではないのでしょうか。これからの企業の在り方も「幸せ観」自体を再定義していかないといけないのではないかと思います。

重なったホットケーキのバターの塗り方。

いまどきはパンケーキというようです。分厚くてたくさん重ねたパンケーキが流行っていますが、昔ながらのホーとケーキは2枚重ね。

あの、2枚重ねのホットケーキ、みんなどうやって食べているのだろう。
課題は、バターの塗り方。
下になってる方へのバターです。

上を食べてからだと、冷めていてバターが良くのびない。
かといって、狭いお皿で2枚同時にバターを塗るのは至難の業。
下は塗らないという割り切りもあるだろうが、味が片手落ちになる。
私は、上をそうっと持ち上げてバターを挟み込んで、
上下の熱で溶かすということをやってしまう。
しかし、スマートではない。

一体、ホットケーキで上にちょこんと載せられた四角いバターと
持ちにくい容器に入ったシロップ。
どう使うことを想定されているんだろう?