民衆が参加できない民主主義。

「来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」(國分功一郎 著)と言う本に興味深い事が書かれています。著者が住む小平市の都道拡張工事の成り行きを例に、「民主主義と言いながら、一番身近な問題が、民衆が置き去りにされたまま行政で勝手に進められる」ということを指摘しています。

考えて見ると、住んでいる街の工事や改革その他、おそらくほとんどのことが行政で決められ、「勝手に」進められているのです。著者が体験した例も行政は説明会と称しながら「決まったことを説明するだけ」の文字通り説明会で、一番の当事者である住民が意見を挟む余地がないと言います。事前に計画が提起されたり、住民の意見が募られることもなく、小平市と東京都で勝手に進められるのだという話。これは小平市だけでなく日本全国でも同じだと思います。

行政と住民の構図や社会の仕組みがそうなっているわけです。だから住民が反対をしたり意見を差し挟もうとすると、行政を相手にとてつもない重労働が必要になります。そのために多くが泣き寝入りや我慢せざるを得ない、行政の良いようにされてしまいます。もちろん、そう言う中には、先見の明のある行政のリーダーによって、後のち住民に大きなメリットがもたらされるケースもあります。

ただし、それは行政のリーダーの資質に寄るという偶然の幸運で、社会の仕組みが良いという事ではありません。こういった住民と乖離した社会の仕組みが、若者だけでなく、選挙の投票率の低さを生んであるのではないのでしょうか。
民主主義と言いながら、民衆は政治家を投票で選ぶことでしか政治には参加できません。

投票する際にも、その人の人となりや普段の活動をよく知るわけでもありません。選挙時の公約などは何とでもかけるし、公約が実行されない例は枚挙にいとまがないでしょう。
実行できるかどうかは、やはりその政治家の個人的な実力によるところが大きいと思いますが、投票する際にそれを知る情報はないと言っても過言ではありません。選挙活動ではみな良いことをいいます。重要なのは普段の姿ですが、それを知る手段は極めて少ないと言えます。

乱暴に言えば、現状の選挙での投票のほとんどが当て物に近い。それ故に、政治はよくなるどころか悪化しているようにさえ見えます。こういう仕組みの中で、若者に投票に行けと言っても、その意義がなかなか見えないのではないかと思います。
しかし、少なくとも、高齢者ばかりに政治家を決めさせて大丈夫か?という投げかけは必要であると思います。