マナーとルール。

マナーも定義が曖昧に使われている言葉だ。
定義が曖昧というと少し違うかも知れないが、ルールという言葉の概念とまぜこぜになっている場合が多い。

辞典をひくと、マナーとは「態度。礼儀。礼儀作法」、ルールとは「規則。きまり」とある。

しかし、電車の車内放送やTVなどでも「マナーを守って〜〜〜」と言うような言い方がされている。マナーは、「態度。礼儀。礼儀作法」だから、特に明確に具体的に何かが決められているものではないので、守るとかいうものではない。明確に決められているのは、ルールなのだ。

これは、マナーというものにルール的な均一性や共有性を求めている現れなのではないだろうか。日本人的な精神性かも知れないなどと思う。
本来、マナーは、人それぞれで微妙に異なるものであり、いろいろな場面や属性で変わってくるものだ。だから、マナーは決められているものではなく、わきまえているものなのだ。つまりマナーは、ある面教養であり、教養のある人同士の間で成立することかも知れない。美意識や文化が同じ人同士で、暗黙の了解としての相手への配慮がマナーであると言えるのではないだろうか。文化の違う場面では、同じ状況でもマナーは異なる。小笠原流というように流派があるのだから、作法はひとつではないと同時に正解がないということでもある。

文化の異なる人同士の間では、本来マナーは意味がないものなのではないのか。よくマナー違反だとか、マナーの取り違えによるトラブルなどが起こるが、それはもっともなのだ。文化の違う人同士、つまりマナーの違う者同士が何かをすれば、何らか混乱が起こるのはものの道理だ。そういうときでも、教養のある側は、それを察知して相手に譲るということをするかもしれない。逆に言えばそれが教養というものであり、マナーなのかも知れない。

では、文化の違う者同士の間で共有できるものはと言えば、それがルールなのだ。ルールは「きまり」であり、決められていることなどだから、両者間で相違は起こりえない。アメリカで、なんでもルール化されるのは、異文化人の集合体だからだ。ルールかが浸透しているという文化は合理性にも富んでいる。ルールは常に合理的でないと成立しないからだ。
つまり、「守って」とアナウンスされるのは、マナーをルール的に解釈しているからではないかと思う。
本来ルールであるべきものをマナーというから話はややこしくなるのだ。

こういうことから考えると、公共の場で必要なのは、マナーではなくルールなのだと思う。電車の中での振る舞いも、ルールを明確に定めて、それを「守る」ようにするのがよいと思う。
携帯電話はマナーモードにするというのは、具体的な行動で明解である。難しいのは、イヤホンの音量だ。明解な数値がない。また、これをマナーで対応するのも難しい。どれくらいが相手にとって不快出ないのか。個人で違うだろう。そう考えると、電車の中で音楽は聴くなという事になる。JIS企画でボリュームの数値を定め、その数値をガイドラインにしてルールにするということが本来は必要なのだろう。
「席を譲る」というマナーは、譲るべき人がアイコン化され表示されている。これはマナーではなく、ルール化されていると言ってもよいのではないか。公共でのふるまいは、こういう風にするべきなのだ。
そうすれば、乗客がどう行動すればよいか明解である。ルールとはそういうものだ。マナーに頼っているウチはトラブルはなくならないはずだ。