「選べるカタログギフト」考察。

冠婚葬祭のお祝い返しで「選べるカタログギフト」をよくもらいます。ギフトを送る側にとっては「何を返せば良いのか」は悩みの種です。その点「選べる」のだから「好きな物を選んでいただける」方が「喜ばれる」はずだということになります。理屈はそのとおりです。どちらにも都合の良い「お返し」のはずです。

しかし、実際はそのカタログを広げて「何にしよう?」と悩む場合が大半なのではないでしょうか。悩んで末に「無難」なお取り寄せ系の食べ物にするという・・・・。はたしてそれは、喜ばれているのか・・・・。ただ、少なくとも「無駄な物」や「どうでもいいもの」ではなく、お返しの金額に見合う物(のはず)です。

ビジネスとしてはギフトはとても大きなマーケットだと思いますが、当事者はどれだけ喜んでいるのでしょうか。「選べるギフト」は送る側、つまり直接お金を払う人(=ギフトのお客さん)の苦労を解放するのでビジネスとしてはとても良いアイデアだと思います。しかし、送る側・送られる側、双方になにかもやもやしたものが残るのではないでしょうか。

送る側は、とりあえず何かを選ぶ悩みからは解放され「お返し」の義務は果たした。しかし、イマイチ安易で事務的なお返しではある。こちらで選ぶことを放棄しているに近いので、ギフトとして気持ちがこもっていない。

送られる側は、丁寧にお返しをいただいたが、定番の「選べるギフト」は、安易感はぬぐえない。しかし、冠婚葬祭の「お返し」の大変さは良く分かるので送り主を責める気は毛頭ない。しかしながら、いつものように「選べるギフト」には欲しいものという物がひとつもない。しかし、せっかくもらったのだから何かを注文したい。何にしよう?悩む、悩んだあげく、いつものお取り寄せにしよう。これはこれで楽しみだ。

しかし、双方とも、こういう「お返し」って意味あるの??などと思ったりする。
冠婚葬祭の「お返し」はほとんど形骸化していてただ、慣習的に行われているにすぎないのではないか。当事者にとっては煩雑なだけで、毎回疑問に思う人も多いのではないでしょうか。
お祝いを贈って半額を欲しいものがない「選べるギフト」でもらうということは、つまりお祝いの半分でどうでも良い物を買っていることになります。それなら、はじめからお祝いを半分にしてお返しはなしということで良いのではないか。
その方が、双方共に心がこもってムダがないのではないか。という理屈が成り立ちます。

「お返し」の慣習は、昔の生活環境や社会の仕組みの中で必要があって生まれたはずで、今ではその必要性はないのではないでしょうか。。
そもそも、日本に家制度がなくなり、親戚などの関係性も大きく変わっているはずですが、未だに「長男は」とか「家に嫁ぐ」という感覚は残っていたりします。
「お返し」の起源をネットを調べるといろいろ出てきますが、どれも現代に当てはめると苦しい説明です。
形骸化したお中元やお歳暮も、廃れつつあるように思います。文化というのは時代によって変化していく物だと思いますので、冠婚葬祭にももっと素朴に気持ちのこもったやりとりが出来るようになればよいなあと思います。