第二次大戦関連の記事が、なぜ有料であるのか?

戦争体験者が高齢になり、なくなっていく中で、第二次大戦の記憶がなくならないように後世に伝えなくてはならないと言われているし、その通りだと思う。
そういう活動をしている市民のかたや団体もたくさんあるようだ。

そうした状況で、大手新聞社で第二次大戦関連の記事が有料記事になっているのはどうなんだろう?

有料読者の中に「伝えなくてはいけない戦争を知らない世代」は、少ないのではないか?若い世代でなくても、すべての新聞を有料で読んでいる人は少ないのではないか。

新聞社がコンテンツを売るのは商売として当たり前だが、第二次大戦関連の記事は無料にして若い世代にも読めるようにするのは、一番影響力のあるマスコミの使命なのではないのか?
市民団体が草の根活動をする何倍もの影響力があるはずだ。
マスコミは、これらの記事を誰に読ませたいのか?

「読みたい人がお金を払って読む記事」=「読みたくない人は読まない記事」

戦争の記憶が、どんどん薄まっていく。
せめて終戦の時期だけでも、関連記事は無料でどんどん読めるようにして欲しいものだ。

几帳面文化の弊害?

台風や災害などで電車が遅れた際に、「台風のため遅れて申し訳ありません」的な車内放送や校内放送がなされる。
台風という自然現象は、仕方ないものであり、それに対して日頃からの備えが甚だしくできてないならいざ知らず、鉄道会社各社は、おそらく万全の備えをしているはずだ。それでも想定外のことが起こったり、想定内の運行の支障が出る。その場合にも「申し訳ありません」となる。

本来、鉄道会社は謝る必要がないはずだ。むしろ、台風によって運行に支障が起こったのなら、鉄道会社も台風の被害者なのだ。なのに、謝らなくてはいけないこの空気は何なんだろうか?
以上のようなことは、鉄道会社も承知のはずだ。だけど、謝らなくてはすまない事情があるのだろう。
1分でも遅れると苦情を言ってくる客がいるらしい。それに対して「仕方がないじゃないですか、台風なのだから」とは言えない社会。当たり前のことを当たり前に言えないのはどこか歪んでいる。

「お客さまは神様です」という言葉の意味を取り違えて「客なら何をしても、何を言っても良い。神様なのだから」と考えている人は多いようだ。企業もイメージダウンを恐れて、モンスターに近い客にも「神様対応」をする。
1分くらい遅れて苦情を言う人の背景には、1分遅れても叱られる会社や学校、家庭などがあるのではないだろうか。日本人の几帳面な性格がマイナスに働いているのではないだろうか。

「1分でも遅れると苦情を言ってくる客」の悪影響はとても大きいと思う。あの、福知山線尼崎付近での大惨事の背景のひとつにもあるのではないかと思う。無理な時間設定もさることながら、それに遅れると会社から罰が下る。遅れると客から苦情が来るからだ。事故の話を聞いていると、時間の正確さについて、異常なほどの執念を感じる。30分遅れるならいざ知らず、通勤客が、会社に5分遅く着いて、それによって業務に障害がでるということが一体どれだけあるのか。ほとんどないと言っても過言ではないだろう。しかし、電車が5分も遅れると苦情は増えるのだろう。

ところが状況は変わってきて、最近は、鉄道会社も人身事故の二次災害などにについて慎重になり、よく運行停止にするので、ダイヤが乱れることが多くなった。それによって「遅れる」ということに、客も慣れてきたのではないか。これは良いことだと思う。少々遅れても、安全が良いに決まっているのだ。

物事には必ず両面がある。日本の鉄道は世界一正確だと言われるが、それを実現するための努力が生み出している、悪影響もあるはずだ。世界一正確より、世界一安全である方がうれしいはずだ。

マナーとルール。

マナーも定義が曖昧に使われている言葉だ。
定義が曖昧というと少し違うかも知れないが、ルールという言葉の概念とまぜこぜになっている場合が多い。

辞典をひくと、マナーとは「態度。礼儀。礼儀作法」、ルールとは「規則。きまり」とある。

しかし、電車の車内放送やTVなどでも「マナーを守って〜〜〜」と言うような言い方がされている。マナーは、「態度。礼儀。礼儀作法」だから、特に明確に具体的に何かが決められているものではないので、守るとかいうものではない。明確に決められているのは、ルールなのだ。

これは、マナーというものにルール的な均一性や共有性を求めている現れなのではないだろうか。日本人的な精神性かも知れないなどと思う。
本来、マナーは、人それぞれで微妙に異なるものであり、いろいろな場面や属性で変わってくるものだ。だから、マナーは決められているものではなく、わきまえているものなのだ。つまりマナーは、ある面教養であり、教養のある人同士の間で成立することかも知れない。美意識や文化が同じ人同士で、暗黙の了解としての相手への配慮がマナーであると言えるのではないだろうか。文化の違う場面では、同じ状況でもマナーは異なる。小笠原流というように流派があるのだから、作法はひとつではないと同時に正解がないということでもある。

文化の異なる人同士の間では、本来マナーは意味がないものなのではないのか。よくマナー違反だとか、マナーの取り違えによるトラブルなどが起こるが、それはもっともなのだ。文化の違う人同士、つまりマナーの違う者同士が何かをすれば、何らか混乱が起こるのはものの道理だ。そういうときでも、教養のある側は、それを察知して相手に譲るということをするかもしれない。逆に言えばそれが教養というものであり、マナーなのかも知れない。

では、文化の違う者同士の間で共有できるものはと言えば、それがルールなのだ。ルールは「きまり」であり、決められていることなどだから、両者間で相違は起こりえない。アメリカで、なんでもルール化されるのは、異文化人の集合体だからだ。ルールかが浸透しているという文化は合理性にも富んでいる。ルールは常に合理的でないと成立しないからだ。
つまり、「守って」とアナウンスされるのは、マナーをルール的に解釈しているからではないかと思う。
本来ルールであるべきものをマナーというから話はややこしくなるのだ。

こういうことから考えると、公共の場で必要なのは、マナーではなくルールなのだと思う。電車の中での振る舞いも、ルールを明確に定めて、それを「守る」ようにするのがよいと思う。
携帯電話はマナーモードにするというのは、具体的な行動で明解である。難しいのは、イヤホンの音量だ。明解な数値がない。また、これをマナーで対応するのも難しい。どれくらいが相手にとって不快出ないのか。個人で違うだろう。そう考えると、電車の中で音楽は聴くなという事になる。JIS企画でボリュームの数値を定め、その数値をガイドラインにしてルールにするということが本来は必要なのだろう。
「席を譲る」というマナーは、譲るべき人がアイコン化され表示されている。これはマナーではなく、ルール化されていると言ってもよいのではないか。公共でのふるまいは、こういう風にするべきなのだ。
そうすれば、乗客がどう行動すればよいか明解である。ルールとはそういうものだ。マナーに頼っているウチはトラブルはなくならないはずだ。

人の実力は、経験か若さか。

よく、若さと経験値のことで議論がされるが、これはどちらが良いということではないと思う。
ものごとには、かならず両面があるのだ。
良く言われるのが人は経験に縛られるということ。確かに人間はそう言う面がある。一方で、ものごとを判断するときに経験上の勘が働く。勘は蓄積の上にやしなわれるものだ。人間は経験してみないと分からない事は山ほどあります。だからこそ行動が大切なのであり、そう言う局面では経験がものを言います。

若いということは知らないばかりに大胆な発想ができるということもあるかも知れない。では若い人はみんな大胆な発想ができるのだろうか?そんなことはない。やはり、「発想」などというものは、個人の資質や姿勢などによるものは大きい。高齢者に新しい発想はできないかと言えば、そんなことはない。高齢でも斬新な発想で仕事をされている方はたくさんいる。亡くなられたシンセサイザー奏者の冨田勲さんは、なくなる直前でも常識を越えた発想で最先端の音響にトライしいた。

ただ、体力だけは年齢に比例して落ちていく。若い人には体力がある。
人の実力は、資質×経験×マインド×体力×努力×・・・・など、複合的な要素によってつくられるものだから、経験か若さかという議論はあまり意味がないと思う。場面場面で、特性をどう生かすかという見極めが大事なのだと思う。その見極めというのも、資質が必要なのだと思う。

では、世の中の上司にはみんなそういった見極めの目が備わっているのかと言えば、残念ながら必ずしもそうではないだろう。なのに、そういった人にも見極めを託してしまう日本の企業(の経営者、あるいは文化)に限界があると思う。
真実を追究する目がまだまだ甘いのではないかと思う。

しかし、そういうことに気づいている経営者は、むしろ若い人には多いのではないか(もちろん経験豊かな経営者にもいるはずだが)。その点は、へんに今までの空気にならされていない若いという特性かも知れない。そう言う会社は、いままでの常識を覆すような組織作りや、事業のやり方で躍進している。

マーケットが伸びてきた、あるいは人口が拡大してきた社会の中では、甘い見極めでも成り立っていたことが、それでは成り立たなくなって来るはず。時代が変わったと言えばそうだが、真実に対しての追求がまだまだ甘いと言うことは多いのではないか。これから、真実を見ない会社はどんどん立ちゆかなくなっていくだろう。

有名人叩きの本質。

有名人、政治家やタレントの不祥事や暴言などで世間から叩かれるということが非常に多くなってきている。
不祥事を起こす方に問題はあるにせよ、度が過ぎているとの声も多い。そう思っている人は多いはずなのに、やはり何か起こると、これでもかと叩かれる。謝罪したらしたで、謝罪の仕方について細かいことまであげつらわれて叩かれる。大衆は他人、特に有名人には厳しいのだ。

そして、これらに共通する構図は、マスコミが報道して、それをネタに叩くという構図だ。ネットだけで流通するようなものもネットのニュースサイトなどで取り上げられる。マスコミの第一報がないと叩きようがない。そして、マスコミのその第一報が悪意に満ちた報道であることが多い。そのため、大衆は、その記事のムードに煽られて「けしからん」となる。
良く言われるように、マスコミの報道は決して客観的ではない。そもそも報道というのは、伝える側の意図が必ず入っている。それに、まんまと大衆は煽られる。よくマスコミは死んだとか言われるが、いやいや、マスコミはまだまだ影響力大だなと思う。
本来、大衆には何の迷惑もない不倫問題でさえ、細かいことまであげつらわれる。そういうムードに洗脳されている部分もあると思う。不倫についてさほど考えていないために、誰かが大きい声を上げると「そうだそうだ」と思う。その連鎖と拡大で自分もそう思うようになる。大衆とは、なんともろいものだろうか。こういったものは、大衆の、いや日本の大衆の本質なのだと思う。戦時中と何も変わっていないと思う。つまり、これからも変わらないのだとも思う。しかし、これは日本の怖さでもあるが良さでもあるはずなのだ。

もうひとつゴシップネタの本質としてやっかみがある。
「有名人=儲かっている」という先入観があるので、やっかみが起こり、ケチをつけたくなる心理。有名人なのだから、ちゃんとしろ。何の根拠もないが大衆はそう思う。叩いて叩いて、地位を引き下ろしたくなる。落とされたのを見て、自分たちとの差が少なくなったことで満足する。そのウラには、常々某か不満を抱えて暮らしている大衆心理があるはず。きっと、本当に毎日幸せを感じて暮らしている人は、その手のゴシップには無関心なのではないだろうか?
そう見ると、最近の度を越した有名人叩きは、社会的不満が以前よりも増している証だと言えるかもしれない。