Amazonの実態。

Amazonを分かりやすく分析した本がでている。

とても面白いというか興味深いというか、空恐ろしいというか、完全に新しい時代の企業だということと、時代や社会は、回り舞台のように変わりつつあるということを実感した。

一番の驚きは、アマゾンは小売業ではなく、IT技術の売上で食っているということだ。小売業は今に至っても赤字らしい。なんということか。そのあたりのアマゾンマジックを本では解説しているが、上手く仕組みを作った結果の巨大なキャッシュフローで次々と投資し、新しい事業をてがけている。我々の知らないところでもアマゾンは、世界の根幹部分に進出している。

そして、この創業者は、一般的なIT企業の創業者にありがちな理屈っぽいイメージとはかけはなれた商売人だと知りました。なので、ITの新しい企業だけれども、泥臭いほどの商売根性でやっているという印象。

また、そもそも今までの企業がおざなりにしていた、あるいは見過ごしていた部分をアマゾンがちゃんと拾い上げているという印象もある。
まっとうに客の利益を追求していって、自社の資源を活用し、ノウハウを横展開し、と、当たり前のことを地道に積み重ねた結果とも言える。

小売業においてのアマゾンのアドバンテージは、品揃えと低価格だ。客にとっての利益は、これに勝るものはない。そのあたりも良く分かって妥協をせず徹底的にやるところが、アマゾンのすごさなのだろう。

昭和生まれの僕などの「新しいサービスやショップができると、便利だけど必ず少し値段が高い」という昭和の価値観も、アマゾンには根本的に打ち砕かれた。アマゾンは、いつもカカクコムの上位にいる。

もうアマゾンの圧倒的な増殖状況に、地球の社会の仕組みがついて行っていないところがある。

JASRACのやり方がかねてから問題になっているが、もしアマゾンが音楽の著作権ビジネスに商機を見いだしたら、最先端のIT技術を使って思ってもみない方法で一気に展開してJASRACなどひとたまりもないと思う。しかし、アマゾンにとっては、マーケットが小さすぎて興味ないかも(笑)

自己責任論。

ジャーナリストの安田さんの解放はとにかくよかったのひと言につきるのですが、いつも出てくる自己責任論。
僕も以前は、こういうジャーナリストの行動については、自己責任であり、国に迷惑を掛けるべきではないと考えていましたが、いろいろな意見を聞くと、そうとも言えないと考えるようになりました。
こういう人の行動があって初めて分かってくる情報があり、それはそれで貴重なものであるという意見に共感するからです。
ただし、ジャーナリストや支援活動の関係者がやむを得ず行く場合以外の、何でもない人が興味本位で彼の地へ行くのはやめるべきだと思います。これは自己責任の前に、自粛するべきと思います。騒動になること自体で迷惑がかかります。

自己責任論がわき起こるから、日本人の多くが責任についてシビアなのかと思えばそうではないと思います。
一般的な日本人の気質としての責任感覚は歪んでいるように思います。
自分で責任を負うことを嫌がるくせに、他人の責任は追及するところがあります。要は「自分に甘く、人に厳しい」です。

例えば、航空機事故が起こった時に、海外は「何故起きたのか」という原因に目が向くのに比べて、日本では「誰の責任なのか」にまず目が向くというようなことが、以前読んだ「マッハの恐怖」(柳田邦雄著:航空機事故のノンフィクション)に書いてありました。
つまり、誰が悪いのかということをとても気にする気質なのではないかと思います。逆に言えば、その当事者になりたくない。
これは、モリカケ問題を始めとする、政府の役人などの対応が象徴しています。悪者にされるのがとても怖い。何とかして、悪者にならないようにしようとするのが、あからさまです。「記憶にございません」という答弁は、その最たるものかも知れません。

そもそも、一般社会でも、自分が関わっている物事に於いて、自分の責任範囲、逆に言えば、自分は何をするべきポジションなのかということを明確に認識してる人は、極めて少ないのではないでしょうか。企業に於いてもです。
その背景には、組織の仕組み自体が明快になっていないという事もあると思います。それらは、時として良い影響を与えることもありますが、責任範囲はグレーなので、しばしばトラブルを引き起こします。
責任範囲をお互いが認識していないということは、信頼関係にも影響することのはずです。しかし、日本的な曖昧さが故に妙な信頼関係が生まれたりもします。明確にしない方がよい場合さえあります。つまり、そこをあまりシビアにやると「角が立つ」からです。やはりそうう文化だからなのでしょうか。

それに比べて外資系の企業は責任範囲を明確にします。契約社会、契約書、というのは、両者の義務と責任を明確に規定して、取引をするものだからです。
グローバルな文化が台頭してくると、日本人の意識も徐々に変わってくるのかも知れません。

人生、ひまつぶし。

この番組は見たことないけど、常々「人生って死ぬまでのひまつぶし」だなぁと思っていたので笑ってしまった。
http://www.tv-osaka.co.jp/ip4/kimimaro/

どんな事をしようと、人は必ず死ぬのであって、生まれてそれまでを人生と呼ぶ。人は(動物もだけど)生まれて死ぬ。それだけ。生まれてしまって死ぬまで膨大な時間、何する???って話で、しなければいけないことなどなく、ただ死ぬのを待っていてもよい。でもそれじゃあ、あんまりなので、というか、生まれてくるともう自然と社会の中に取り込まれているので、社会の中で某か生きなければならない状況なのだ。
つまり目的を持って生まれてきたワケではないので、人生に意味などないのである。だから、意味を見いだそうとしてしまうのだ。それぞれに意味を見いだして頑張る人もいればそうでない人もいて、社会的に評価される人もいればそうでない人もいるが、どちらにしても根本的な意味はなく、死ぬまで何かをして生きているだけのことで、なにをしてもやがて例外なく死ぬ。つまり生きている間は「暇つぶし」なのだ。

だから人のすることに偉いも偉くないもないのだ。所詮暇つぶしなのだから。後世に偉業を残したなどと評価されたりするが、本人は死んでしまっている。もう本人には関係ないのだ。そして、それは所詮人間社会の中での話でしかなく、生きている、暇つぶし最中の人達の間でワイワイ言っているだけのことなのだ。

どうせ、暇つぶしをするなら楽しい方がよい。暇つぶしなのだから楽しくなければ意味がない。楽しくない人は、辛さに意味を見いだすことで気持ちをおさめる。
だから、一番意味があるのは、楽しい人が辛い人を楽しくなるように手助けすることなのではないか。みんなが楽しく暇つぶしをできるようにするのが、正しい社会なのではないかと思うが、なかなかそうならない。
楽しい人は、辛い人を助けるより、もっと楽しさを求める場合が多いからだ。たかが暇つぶしに、そんなに求めなくても良いのではないかと思うが、求めるだけのエゴをもってしまっている。

 

「心より」には、心がこもっているか?

「心よりお悔やみを申し上げます」
「心よりお詫び致します」
などと、お詫びを始め、お悔やみなどで「心より」が添えられる。
テレビはもちろん、SNSなどでも、素人がそのようなコメントを書いていたりする。
何か表面的というかウソくさい匂いがするのだ。
そのコメントがウソだとは思わないが、その思いの程度の問題についてである。

お悔やみやお詫びというものは、そもそも「心から」思うものであり、
そうでなければウソになる。
なのに、なぜ分かっているはずの「心から」を添えるのか。

「心から」をつけるのは、「ウソじゃないよ本当だよ?」というような気持ちの深さの保険としてつけているのではないか?

あるいは、心から思うのが当たり前のメッセージに「心から」を添えることによって、そのメッセージがウソ臭く聞こえてしまうと思う。

「心から」を添えるのは、そんなに深く考えていなくて慣習的につけていることが多いのだろうが、それはつまり、深い思いはないということだ。

親しい人の葬儀に伺って「心からお悔やみを申し上げます」と言うだろうか?普通に「お悔やみを申し上げます」ではないのか?

「心から」がつく場合は、テレビなど、より親しくない関係へ向けてのメッセージの場合だと思う。だからこそ、「ウソじゃないよ本当だよ?」のニュアンスがつくのではないか。

「心から」は、そのメッセージが「心から」ではないことを証明しているように思えるとうのは、解釈が歪みすぎているだろうか?

日本のその手の挨拶やコメントは、「人と同じように」を重んじる日本の文化性によって長年の間に慣習化されて、歪んできてしまっていると思う。

企業のお詫びにも現れている。

実力と能力。

実力と能力という言葉は、定義があいまいなまま使われている場合が多い。
「本来持っている実力を発揮できなかった」とか「能力を試される機会となった」というような言い方は、少し意味がぶれているようにも思う。しかし、辞書を調べてみると、実力とは1 実際に備えている能力。本当の力量。「実力がつく」「実力を発揮する」2 目的を果たすために実際の行為・行動で示される力。腕力・武力など。「実力にうったえる」「実力で排除する」 。つまり「実際に備えている能力」である。それからすると「本来の実力」という言い方はおかしくて「本来の能力」と言うべきだ。

能力とは1 物事を成し遂げることのできる力。「能力を備える」「能力を発揮する」「予知能力」2 法律上、一定の事柄について要求される人の資格。権利能力・行為能力・責任能力など。
「物事を成し遂げることのできる力」という定義はかなり曖昧である。これだとこの中には「実力」も入るのではないか。

実力とは、「実」なのだから実際の力である。実際というのは、場面や環境も含んで結果的に発揮するという意味ではないか。能力は、「能」だから元々備わっている性能ではないか。

そういう風に定義すると、「能力」+環境その他の外的要因=「実力」ということなのではないか。辞書の定義も曖昧だったりする。言葉の概念が違うと受け取る意味合いも微妙に違ってくる。文章を書く際にも、定義が曖昧なまま使っている人は多く、そのため、本質がみえにくくもやもやしたりする。
これが、カタカナ用語になるとさらに曖昧に成り、業界によっても意味が異なる場合もある。
話をする場合は、そういった定義を共有しながら話さないと伝わらないのだ。

第二次大戦関連の記事が、なぜ有料であるのか?

戦争体験者が高齢になり、なくなっていく中で、第二次大戦の記憶がなくならないように後世に伝えなくてはならないと言われているし、その通りだと思う。
そういう活動をしている市民のかたや団体もたくさんあるようだ。

そうした状況で、大手新聞社で第二次大戦関連の記事が有料記事になっているのはどうなんだろう?

有料読者の中に「伝えなくてはいけない戦争を知らない世代」は、少ないのではないか?若い世代でなくても、すべての新聞を有料で読んでいる人は少ないのではないか。

新聞社がコンテンツを売るのは商売として当たり前だが、第二次大戦関連の記事は無料にして若い世代にも読めるようにするのは、一番影響力のあるマスコミの使命なのではないのか?
市民団体が草の根活動をする何倍もの影響力があるはずだ。
マスコミは、これらの記事を誰に読ませたいのか?

「読みたい人がお金を払って読む記事」=「読みたくない人は読まない記事」

戦争の記憶が、どんどん薄まっていく。
せめて終戦の時期だけでも、関連記事は無料でどんどん読めるようにして欲しいものだ。

几帳面文化の弊害?

台風や災害などで電車が遅れた際に、「台風のため遅れて申し訳ありません」的な車内放送や校内放送がなされる。
台風という自然現象は、仕方ないものであり、それに対して日頃からの備えが甚だしくできてないならいざ知らず、鉄道会社各社は、おそらく万全の備えをしているはずだ。それでも想定外のことが起こったり、想定内の運行の支障が出る。その場合にも「申し訳ありません」となる。

本来、鉄道会社は謝る必要がないはずだ。むしろ、台風によって運行に支障が起こったのなら、鉄道会社も台風の被害者なのだ。なのに、謝らなくてはいけないこの空気は何なんだろうか?
以上のようなことは、鉄道会社も承知のはずだ。だけど、謝らなくてはすまない事情があるのだろう。
1分でも遅れると苦情を言ってくる客がいるらしい。それに対して「仕方がないじゃないですか、台風なのだから」とは言えない社会。当たり前のことを当たり前に言えないのはどこか歪んでいる。

「お客さまは神様です」という言葉の意味を取り違えて「客なら何をしても、何を言っても良い。神様なのだから」と考えている人は多いようだ。企業もイメージダウンを恐れて、モンスターに近い客にも「神様対応」をする。
1分くらい遅れて苦情を言う人の背景には、1分遅れても叱られる会社や学校、家庭などがあるのではないだろうか。日本人の几帳面な性格がマイナスに働いているのではないだろうか。

「1分でも遅れると苦情を言ってくる客」の悪影響はとても大きいと思う。あの、福知山線尼崎付近での大惨事の背景のひとつにもあるのではないかと思う。無理な時間設定もさることながら、それに遅れると会社から罰が下る。遅れると客から苦情が来るからだ。事故の話を聞いていると、時間の正確さについて、異常なほどの執念を感じる。30分遅れるならいざ知らず、通勤客が、会社に5分遅く着いて、それによって業務に障害がでるということが一体どれだけあるのか。ほとんどないと言っても過言ではないだろう。しかし、電車が5分も遅れると苦情は増えるのだろう。

ところが状況は変わってきて、最近は、鉄道会社も人身事故の二次災害などにについて慎重になり、よく運行停止にするので、ダイヤが乱れることが多くなった。それによって「遅れる」ということに、客も慣れてきたのではないか。これは良いことだと思う。少々遅れても、安全が良いに決まっているのだ。

物事には必ず両面がある。日本の鉄道は世界一正確だと言われるが、それを実現するための努力が生み出している、悪影響もあるはずだ。世界一正確より、世界一安全である方がうれしいはずだ。

マナーとルール。

マナーも定義が曖昧に使われている言葉だ。
定義が曖昧というと少し違うかも知れないが、ルールという言葉の概念とまぜこぜになっている場合が多い。

辞典をひくと、マナーとは「態度。礼儀。礼儀作法」、ルールとは「規則。きまり」とある。

しかし、電車の車内放送やTVなどでも「マナーを守って〜〜〜」と言うような言い方がされている。マナーは、「態度。礼儀。礼儀作法」だから、特に明確に具体的に何かが決められているものではないので、守るとかいうものではない。明確に決められているのは、ルールなのだ。

これは、マナーというものにルール的な均一性や共有性を求めている現れなのではないだろうか。日本人的な精神性かも知れないなどと思う。
本来、マナーは、人それぞれで微妙に異なるものであり、いろいろな場面や属性で変わってくるものだ。だから、マナーは決められているものではなく、わきまえているものなのだ。つまりマナーは、ある面教養であり、教養のある人同士の間で成立することかも知れない。美意識や文化が同じ人同士で、暗黙の了解としての相手への配慮がマナーであると言えるのではないだろうか。文化の違う場面では、同じ状況でもマナーは異なる。小笠原流というように流派があるのだから、作法はひとつではないと同時に正解がないということでもある。

文化の異なる人同士の間では、本来マナーは意味がないものなのではないのか。よくマナー違反だとか、マナーの取り違えによるトラブルなどが起こるが、それはもっともなのだ。文化の違う人同士、つまりマナーの違う者同士が何かをすれば、何らか混乱が起こるのはものの道理だ。そういうときでも、教養のある側は、それを察知して相手に譲るということをするかもしれない。逆に言えばそれが教養というものであり、マナーなのかも知れない。

では、文化の違う者同士の間で共有できるものはと言えば、それがルールなのだ。ルールは「きまり」であり、決められていることなどだから、両者間で相違は起こりえない。アメリカで、なんでもルール化されるのは、異文化人の集合体だからだ。ルールかが浸透しているという文化は合理性にも富んでいる。ルールは常に合理的でないと成立しないからだ。
つまり、「守って」とアナウンスされるのは、マナーをルール的に解釈しているからではないかと思う。
本来ルールであるべきものをマナーというから話はややこしくなるのだ。

こういうことから考えると、公共の場で必要なのは、マナーではなくルールなのだと思う。電車の中での振る舞いも、ルールを明確に定めて、それを「守る」ようにするのがよいと思う。
携帯電話はマナーモードにするというのは、具体的な行動で明解である。難しいのは、イヤホンの音量だ。明解な数値がない。また、これをマナーで対応するのも難しい。どれくらいが相手にとって不快出ないのか。個人で違うだろう。そう考えると、電車の中で音楽は聴くなという事になる。JIS企画でボリュームの数値を定め、その数値をガイドラインにしてルールにするということが本来は必要なのだろう。
「席を譲る」というマナーは、譲るべき人がアイコン化され表示されている。これはマナーではなく、ルール化されていると言ってもよいのではないか。公共でのふるまいは、こういう風にするべきなのだ。
そうすれば、乗客がどう行動すればよいか明解である。ルールとはそういうものだ。マナーに頼っているウチはトラブルはなくならないはずだ。

人の実力は、経験か若さか。

よく、若さと経験値のことで議論がされるが、これはどちらが良いということではないと思う。
ものごとには、かならず両面があるのだ。
良く言われるのが人は経験に縛られるということ。確かに人間はそう言う面がある。一方で、ものごとを判断するときに経験上の勘が働く。勘は蓄積の上にやしなわれるものだ。人間は経験してみないと分からない事は山ほどあります。だからこそ行動が大切なのであり、そう言う局面では経験がものを言います。

若いということは知らないばかりに大胆な発想ができるということもあるかも知れない。では若い人はみんな大胆な発想ができるのだろうか?そんなことはない。やはり、「発想」などというものは、個人の資質や姿勢などによるものは大きい。高齢者に新しい発想はできないかと言えば、そんなことはない。高齢でも斬新な発想で仕事をされている方はたくさんいる。亡くなられたシンセサイザー奏者の冨田勲さんは、なくなる直前でも常識を越えた発想で最先端の音響にトライしいた。

ただ、体力だけは年齢に比例して落ちていく。若い人には体力がある。
人の実力は、資質×経験×マインド×体力×努力×・・・・など、複合的な要素によってつくられるものだから、経験か若さかという議論はあまり意味がないと思う。場面場面で、特性をどう生かすかという見極めが大事なのだと思う。その見極めというのも、資質が必要なのだと思う。

では、世の中の上司にはみんなそういった見極めの目が備わっているのかと言えば、残念ながら必ずしもそうではないだろう。なのに、そういった人にも見極めを託してしまう日本の企業(の経営者、あるいは文化)に限界があると思う。
真実を追究する目がまだまだ甘いのではないかと思う。

しかし、そういうことに気づいている経営者は、むしろ若い人には多いのではないか(もちろん経験豊かな経営者にもいるはずだが)。その点は、へんに今までの空気にならされていない若いという特性かも知れない。そう言う会社は、いままでの常識を覆すような組織作りや、事業のやり方で躍進している。

マーケットが伸びてきた、あるいは人口が拡大してきた社会の中では、甘い見極めでも成り立っていたことが、それでは成り立たなくなって来るはず。時代が変わったと言えばそうだが、真実に対しての追求がまだまだ甘いと言うことは多いのではないか。これから、真実を見ない会社はどんどん立ちゆかなくなっていくだろう。

有名人叩きの本質。

有名人、政治家やタレントの不祥事や暴言などで世間から叩かれるということが非常に多くなってきている。
不祥事を起こす方に問題はあるにせよ、度が過ぎているとの声も多い。そう思っている人は多いはずなのに、やはり何か起こると、これでもかと叩かれる。謝罪したらしたで、謝罪の仕方について細かいことまであげつらわれて叩かれる。大衆は他人、特に有名人には厳しいのだ。

そして、これらに共通する構図は、マスコミが報道して、それをネタに叩くという構図だ。ネットだけで流通するようなものもネットのニュースサイトなどで取り上げられる。マスコミの第一報がないと叩きようがない。そして、マスコミのその第一報が悪意に満ちた報道であることが多い。そのため、大衆は、その記事のムードに煽られて「けしからん」となる。
良く言われるように、マスコミの報道は決して客観的ではない。そもそも報道というのは、伝える側の意図が必ず入っている。それに、まんまと大衆は煽られる。よくマスコミは死んだとか言われるが、いやいや、マスコミはまだまだ影響力大だなと思う。
本来、大衆には何の迷惑もない不倫問題でさえ、細かいことまであげつらわれる。そういうムードに洗脳されている部分もあると思う。不倫についてさほど考えていないために、誰かが大きい声を上げると「そうだそうだ」と思う。その連鎖と拡大で自分もそう思うようになる。大衆とは、なんともろいものだろうか。こういったものは、大衆の、いや日本の大衆の本質なのだと思う。戦時中と何も変わっていないと思う。つまり、これからも変わらないのだとも思う。しかし、これは日本の怖さでもあるが良さでもあるはずなのだ。

もうひとつゴシップネタの本質としてやっかみがある。
「有名人=儲かっている」という先入観があるので、やっかみが起こり、ケチをつけたくなる心理。有名人なのだから、ちゃんとしろ。何の根拠もないが大衆はそう思う。叩いて叩いて、地位を引き下ろしたくなる。落とされたのを見て、自分たちとの差が少なくなったことで満足する。そのウラには、常々某か不満を抱えて暮らしている大衆心理があるはず。きっと、本当に毎日幸せを感じて暮らしている人は、その手のゴシップには無関心なのではないだろうか?
そう見ると、最近の度を越した有名人叩きは、社会的不満が以前よりも増している証だと言えるかもしれない。