実力と能力。

実力と能力という言葉は、定義があいまいなまま使われている場合が多い。
「本来持っている実力を発揮できなかった」とか「能力を試される機会となった」というような言い方は、少し意味がぶれているようにも思う。しかし、辞書を調べてみると、実力とは1 実際に備えている能力。本当の力量。「実力がつく」「実力を発揮する」2 目的を果たすために実際の行為・行動で示される力。腕力・武力など。「実力にうったえる」「実力で排除する」 。つまり「実際に備えている能力」である。それからすると「本来の実力」という言い方はおかしくて「本来の能力」と言うべきだ。

能力とは1 物事を成し遂げることのできる力。「能力を備える」「能力を発揮する」「予知能力」2 法律上、一定の事柄について要求される人の資格。権利能力・行為能力・責任能力など。
「物事を成し遂げることのできる力」という定義はかなり曖昧である。これだとこの中には「実力」も入るのではないか。

実力とは、「実」なのだから実際の力である。実際というのは、場面や環境も含んで結果的に発揮するという意味ではないか。能力は、「能」だから元々備わっている性能ではないか。

そういう風に定義すると、「能力」+環境その他の外的要因=「実力」ということなのではないか。辞書の定義も曖昧だったりする。言葉の概念が違うと受け取る意味合いも微妙に違ってくる。文章を書く際にも、定義が曖昧なまま使っている人は多く、そのため、本質がみえにくくもやもやしたりする。
これが、カタカナ用語になるとさらに曖昧に成り、業界によっても意味が異なる場合もある。
話をする場合は、そういった定義を共有しながら話さないと伝わらないのだ。

第二次大戦関連の記事が、なぜ有料であるのか?

戦争体験者が高齢になり、なくなっていく中で、第二次大戦の記憶がなくならないように後世に伝えなくてはならないと言われているし、その通りだと思う。
そういう活動をしている市民のかたや団体もたくさんあるようだ。

そうした状況で、大手新聞社で第二次大戦関連の記事が有料記事になっているのはどうなんだろう?

有料読者の中に「伝えなくてはいけない戦争を知らない世代」は、少ないのではないか?若い世代でなくても、すべての新聞を有料で読んでいる人は少ないのではないか。

新聞社がコンテンツを売るのは商売として当たり前だが、第二次大戦関連の記事は無料にして若い世代にも読めるようにするのは、一番影響力のあるマスコミの使命なのではないのか?
市民団体が草の根活動をする何倍もの影響力があるはずだ。
マスコミは、これらの記事を誰に読ませたいのか?

「読みたい人がお金を払って読む記事」=「読みたくない人は読まない記事」

戦争の記憶が、どんどん薄まっていく。
せめて終戦の時期だけでも、関連記事は無料でどんどん読めるようにして欲しいものだ。

几帳面文化の弊害?

台風や災害などで電車が遅れた際に、「台風のため遅れて申し訳ありません」的な車内放送や校内放送がなされる。
台風という自然現象は、仕方ないものであり、それに対して日頃からの備えが甚だしくできてないならいざ知らず、鉄道会社各社は、おそらく万全の備えをしているはずだ。それでも想定外のことが起こったり、想定内の運行の支障が出る。その場合にも「申し訳ありません」となる。

本来、鉄道会社は謝る必要がないはずだ。むしろ、台風によって運行に支障が起こったのなら、鉄道会社も台風の被害者なのだ。なのに、謝らなくてはいけないこの空気は何なんだろうか?
以上のようなことは、鉄道会社も承知のはずだ。だけど、謝らなくてはすまない事情があるのだろう。
1分でも遅れると苦情を言ってくる客がいるらしい。それに対して「仕方がないじゃないですか、台風なのだから」とは言えない社会。当たり前のことを当たり前に言えないのはどこか歪んでいる。

「お客さまは神様です」という言葉の意味を取り違えて「客なら何をしても、何を言っても良い。神様なのだから」と考えている人は多いようだ。企業もイメージダウンを恐れて、モンスターに近い客にも「神様対応」をする。
1分くらい遅れて苦情を言う人の背景には、1分遅れても叱られる会社や学校、家庭などがあるのではないだろうか。日本人の几帳面な性格がマイナスに働いているのではないだろうか。

「1分でも遅れると苦情を言ってくる客」の悪影響はとても大きいと思う。あの、福知山線尼崎付近での大惨事の背景のひとつにもあるのではないかと思う。無理な時間設定もさることながら、それに遅れると会社から罰が下る。遅れると客から苦情が来るからだ。事故の話を聞いていると、時間の正確さについて、異常なほどの執念を感じる。30分遅れるならいざ知らず、通勤客が、会社に5分遅く着いて、それによって業務に障害がでるということが一体どれだけあるのか。ほとんどないと言っても過言ではないだろう。しかし、電車が5分も遅れると苦情は増えるのだろう。

ところが状況は変わってきて、最近は、鉄道会社も人身事故の二次災害などにについて慎重になり、よく運行停止にするので、ダイヤが乱れることが多くなった。それによって「遅れる」ということに、客も慣れてきたのではないか。これは良いことだと思う。少々遅れても、安全が良いに決まっているのだ。

物事には必ず両面がある。日本の鉄道は世界一正確だと言われるが、それを実現するための努力が生み出している、悪影響もあるはずだ。世界一正確より、世界一安全である方がうれしいはずだ。

マナーとルール。

マナーも定義が曖昧に使われている言葉だ。
定義が曖昧というと少し違うかも知れないが、ルールという言葉の概念とまぜこぜになっている場合が多い。

辞典をひくと、マナーとは「態度。礼儀。礼儀作法」、ルールとは「規則。きまり」とある。

しかし、電車の車内放送やTVなどでも「マナーを守って〜〜〜」と言うような言い方がされている。マナーは、「態度。礼儀。礼儀作法」だから、特に明確に具体的に何かが決められているものではないので、守るとかいうものではない。明確に決められているのは、ルールなのだ。

これは、マナーというものにルール的な均一性や共有性を求めている現れなのではないだろうか。日本人的な精神性かも知れないなどと思う。
本来、マナーは、人それぞれで微妙に異なるものであり、いろいろな場面や属性で変わってくるものだ。だから、マナーは決められているものではなく、わきまえているものなのだ。つまりマナーは、ある面教養であり、教養のある人同士の間で成立することかも知れない。美意識や文化が同じ人同士で、暗黙の了解としての相手への配慮がマナーであると言えるのではないだろうか。文化の違う場面では、同じ状況でもマナーは異なる。小笠原流というように流派があるのだから、作法はひとつではないと同時に正解がないということでもある。

文化の異なる人同士の間では、本来マナーは意味がないものなのではないのか。よくマナー違反だとか、マナーの取り違えによるトラブルなどが起こるが、それはもっともなのだ。文化の違う人同士、つまりマナーの違う者同士が何かをすれば、何らか混乱が起こるのはものの道理だ。そういうときでも、教養のある側は、それを察知して相手に譲るということをするかもしれない。逆に言えばそれが教養というものであり、マナーなのかも知れない。

では、文化の違う者同士の間で共有できるものはと言えば、それがルールなのだ。ルールは「きまり」であり、決められていることなどだから、両者間で相違は起こりえない。アメリカで、なんでもルール化されるのは、異文化人の集合体だからだ。ルールかが浸透しているという文化は合理性にも富んでいる。ルールは常に合理的でないと成立しないからだ。
つまり、「守って」とアナウンスされるのは、マナーをルール的に解釈しているからではないかと思う。
本来ルールであるべきものをマナーというから話はややこしくなるのだ。

こういうことから考えると、公共の場で必要なのは、マナーではなくルールなのだと思う。電車の中での振る舞いも、ルールを明確に定めて、それを「守る」ようにするのがよいと思う。
携帯電話はマナーモードにするというのは、具体的な行動で明解である。難しいのは、イヤホンの音量だ。明解な数値がない。また、これをマナーで対応するのも難しい。どれくらいが相手にとって不快出ないのか。個人で違うだろう。そう考えると、電車の中で音楽は聴くなという事になる。JIS企画でボリュームの数値を定め、その数値をガイドラインにしてルールにするということが本来は必要なのだろう。
「席を譲る」というマナーは、譲るべき人がアイコン化され表示されている。これはマナーではなく、ルール化されていると言ってもよいのではないか。公共でのふるまいは、こういう風にするべきなのだ。
そうすれば、乗客がどう行動すればよいか明解である。ルールとはそういうものだ。マナーに頼っているウチはトラブルはなくならないはずだ。

人の実力は、経験か若さか。

よく、若さと経験値のことで議論がされるが、これはどちらが良いということではないと思う。
ものごとには、かならず両面があるのだ。
良く言われるのが人は経験に縛られるということ。確かに人間はそう言う面がある。一方で、ものごとを判断するときに経験上の勘が働く。勘は蓄積の上にやしなわれるものだ。人間は経験してみないと分からない事は山ほどあります。だからこそ行動が大切なのであり、そう言う局面では経験がものを言います。

若いということは知らないばかりに大胆な発想ができるということもあるかも知れない。では若い人はみんな大胆な発想ができるのだろうか?そんなことはない。やはり、「発想」などというものは、個人の資質や姿勢などによるものは大きい。高齢者に新しい発想はできないかと言えば、そんなことはない。高齢でも斬新な発想で仕事をされている方はたくさんいる。亡くなられたシンセサイザー奏者の冨田勲さんは、なくなる直前でも常識を越えた発想で最先端の音響にトライしいた。

ただ、体力だけは年齢に比例して落ちていく。若い人には体力がある。
人の実力は、資質×経験×マインド×体力×努力×・・・・など、複合的な要素によってつくられるものだから、経験か若さかという議論はあまり意味がないと思う。場面場面で、特性をどう生かすかという見極めが大事なのだと思う。その見極めというのも、資質が必要なのだと思う。

では、世の中の上司にはみんなそういった見極めの目が備わっているのかと言えば、残念ながら必ずしもそうではないだろう。なのに、そういった人にも見極めを託してしまう日本の企業(の経営者、あるいは文化)に限界があると思う。
真実を追究する目がまだまだ甘いのではないかと思う。

しかし、そういうことに気づいている経営者は、むしろ若い人には多いのではないか(もちろん経験豊かな経営者にもいるはずだが)。その点は、へんに今までの空気にならされていない若いという特性かも知れない。そう言う会社は、いままでの常識を覆すような組織作りや、事業のやり方で躍進している。

マーケットが伸びてきた、あるいは人口が拡大してきた社会の中では、甘い見極めでも成り立っていたことが、それでは成り立たなくなって来るはず。時代が変わったと言えばそうだが、真実に対しての追求がまだまだ甘いと言うことは多いのではないか。これから、真実を見ない会社はどんどん立ちゆかなくなっていくだろう。

衝動買い。

https://diamond.jp/articles/-/172735

この記事に、山で遭難する理由について、山で道に迷った時、元来た道を引き返すのが鉄則なのに、多くの人が引き返せないそうです。理由は、迷ったことである種のパニック状態に陥って冷静な判断ができないからだと書いてあります。

人間はパニックになると正しい判断ができなくなる。衝動買いもこれではないかと思います。思わず見つけた商品に心を奪われ、舞い上がってしまうのは、一種のパニック状態です。
ここの中には、もう「買うぞ」という衝動が生まれています。冷静に、損得や必要の是非などを検討してから行くべきなのに、道は「買う」しか見えなくなってしまいます。

逆手に意地悪く考えると、そういったパニックを起こすような状況をつくれば、衝動買いしてくれるということです。そのひとつがバーゲンであり、特別会員様セールなどもその仲間でしょう。
もうひとつは、人間は自分の心の中を言い当てられると妙にそわそわします。密かに好意を持っていた女の子のことを友人に言い当てられると焦ったり取り乱したりします(笑)パニック状態です。
広告やPOPのコピーも同じです。心の奥を言い当てられた人はそわそわします。そうなるとそのことが気になって仕方がありません。マインドシェアを奪われてしまいます。
人間の心理と行動は面白いものです。

有名人叩きの本質。

有名人、政治家やタレントの不祥事や暴言などで世間から叩かれるということが非常に多くなってきている。
不祥事を起こす方に問題はあるにせよ、度が過ぎているとの声も多い。そう思っている人は多いはずなのに、やはり何か起こると、これでもかと叩かれる。謝罪したらしたで、謝罪の仕方について細かいことまであげつらわれて叩かれる。大衆は他人、特に有名人には厳しいのだ。

そして、これらに共通する構図は、マスコミが報道して、それをネタに叩くという構図だ。ネットだけで流通するようなものもネットのニュースサイトなどで取り上げられる。マスコミの第一報がないと叩きようがない。そして、マスコミのその第一報が悪意に満ちた報道であることが多い。そのため、大衆は、その記事のムードに煽られて「けしからん」となる。
良く言われるように、マスコミの報道は決して客観的ではない。そもそも報道というのは、伝える側の意図が必ず入っている。それに、まんまと大衆は煽られる。よくマスコミは死んだとか言われるが、いやいや、マスコミはまだまだ影響力大だなと思う。
本来、大衆には何の迷惑もない不倫問題でさえ、細かいことまであげつらわれる。そういうムードに洗脳されている部分もあると思う。不倫についてさほど考えていないために、誰かが大きい声を上げると「そうだそうだ」と思う。その連鎖と拡大で自分もそう思うようになる。大衆とは、なんともろいものだろうか。こういったものは、大衆の、いや日本の大衆の本質なのだと思う。戦時中と何も変わっていないと思う。つまり、これからも変わらないのだとも思う。しかし、これは日本の怖さでもあるが良さでもあるはずなのだ。

もうひとつゴシップネタの本質としてやっかみがある。
「有名人=儲かっている」という先入観があるので、やっかみが起こり、ケチをつけたくなる心理。有名人なのだから、ちゃんとしろ。何の根拠もないが大衆はそう思う。叩いて叩いて、地位を引き下ろしたくなる。落とされたのを見て、自分たちとの差が少なくなったことで満足する。そのウラには、常々某か不満を抱えて暮らしている大衆心理があるはず。きっと、本当に毎日幸せを感じて暮らしている人は、その手のゴシップには無関心なのではないだろうか?
そう見ると、最近の度を越した有名人叩きは、社会的不満が以前よりも増している証だと言えるかもしれない。

定石かバクチか。

バルミューダという、2万円するトースターで有名になった家電メーカーを作った人の話。というか自伝を読みました。

両親の離婚や母の死を経て、高校を中退した半分不良男が、ミュージシャンになって挫折もし、その後にバルミューダを設立するというドラマチックな話でもちろん実話。

「強い意志と情熱さえあれば、ノウハウや環境は後からついてくる」という見本のような話で、面白いし感心します。

とても文章が上手く、生い立ちの話から引き込まれるし絵が浮かびます。バルミューダの会社としての存在の仕方というかマインドが、バンド的な考えというのがミュージシャンらしいし共感します。デザインや製品が彼そのものだというのが良く分かるし、タイトルもミュージシャンらしいなあと思います。

マーケティングリサーチをしてモノを作るというのが定石である中、その対極にあるようなモノづくり。
「定石」というのは結局ボリュームゾーンだということであり、フォロワーなのです。頭ひとつ出ようとすれば、よほどの資本力がない限り定石では難しい。
資本力のあるアップルでさえ定石ではない。というより、定石を打たず革新を起こしてきたからアップルがあるというべきでしょう。定石ではないのだから、レアケースであるとも言えます。しかし、やっている本人たちは、強い意思と情熱、確信や良い意味での勘違いなどに見舞われて、定石であるとかレアであるとか考えていないはずだ。熱にうなされたようにやっていたはずです。
ある面バクチであり、だからこそ対極に定石が存在する。面白いのはどちらかといえば、そりゃ、バクチの方です。リスクがあるけど面白い。
無難だけど面白くないのが定石。しかし、定石をやっていても売れないという時代でもあります。定石にほどよくバクチ要素を加えたくらいが良いのかも知れませんが、そういうのは、どこか嘘くさく見えるのかも知れません。

偶然は、理由があってやってくる。

いろいろ戦略を立てて販売しても思うように売れなかったりすることは多々あることです。
そのとき、思いもよらない先から注文が入ったり、意外な人が買っていったり、
この人が一体何に使うんだろうと思うような売れ方をすることがあります。

これを偶然売れたと思ってはいけません。
お金を払って買うには必ず理由があります。
その理由が、その人だけのことなのか、
同じような人が他にもいそうなのかによって、新しい需要が見つかります。

建材の販売店が、素人用に半練りの使いやすい漆喰を売り出したところ、
ひとりの人が大量に買ったそうです。

不思議に思って聞いてみると、左官職人、つまりプロなのです。
なぜ素人用の半練りを買うのかを尋ねたら、
人手不足でアシスタント(つまり練る人)がいない。
半練りの漆喰なら、アシスタントなしで使えると言うことだったそうです。

そこで、半練り漆喰商品をプロ用に仕立てたら爆発的に売れたそうです。

たまたま売れたは、新しい需要の種かも知れません。

スローガンの決め方。

ある市民団体のスローガンの相談を受けて、
幹部の方たちで考えたスローガンの案を見せて頂きました。

とても当たり前で無難な言葉が並んでいて、
あってもなくても良いようなスローガン案ばかりでした。

こういった場合に多いのが、
状況描写で終わってしまっているケースです。
みんなの○○○とか、未来へ向かう○○○とか・・・・

だからいまひとつしっくりこないんです。
気持ちが入っていないんですね。

そういったことを申し上げると、考えるのは面倒だとか、
なかなかみんなが集まるのが大変だとか、
意見を合わせるのが難しいとか言われるので、尋ねてみました。
「そんな、大変で面倒な思いまでしてなぜこの活動をやっているのですか?」
そうすると、あれこれ思いの入った返答が返ってきました。
そこで、申し上げました。
「その思いをスローガンにしましょうよ」

なるほどと思われたのか、その後に見せて頂いた案には、
その団体ならではの言葉が散りばめられていました。