おかしい話。:「お詫び」の程度。

企業が不祥事を起こしてテレビで謝罪しているほとんどが、
気持ちがこもっていないと感じてしまう。
実際は、こもっていないときもあれば、
本当に申し訳ないと思っている時もあるだろうと思うが、
それが伝わらないどころか、ウソに見えてしまう。

これは、「謝る」ということが、様式化してしまった問題ではないのだろうか。

特に仕事の中で起こる。
日本は、へりくだって謝ると言うことが文化としてあるため、
何でもかんでも「すみません」とやる。

しかも、企業になると「申し訳ありません」と最大級になる。
「申し訳ない」とは、これ以上弁解の余地がなく、
表現のしようがないほど謝っているという事だろう。
この最大級を最初から出してしまうために困ったことが起こる。

本当は、「すまない」という内容には程度があるはずである。
仮に1〜5段階あるとして、プライベートなら、
1程度だと「ごめん、ごめん」くらいで済んで、
3くらいになると「いや、本当に申し訳なかった、謝る」くらいの感じになり、
5になると「本当になんと言って謝罪すればいいか言葉が見つからない。
本当に申し訳ない。ついては、○○○(具体的な対応救済策)する。
いま、できる最大のことはこれなのです・・・・云々」などと最大限の誤りになる。
と言う風に、起こってしまったことの程度に応じて謝り方にも段階が出てくる。
それでこそ初めて謝りに真実味が伴うのだ。

ところが企業の場合は、1〜5まで「申し訳ありません」になるのだ。
1で「申し訳ありません」と言ってしまうため、それ以上がない。
タレントのようにマンモス申し訳ないとか、
ギガ申し訳ないなどが使えたら良いのだが、
今のところ、常識的な言葉として「申し訳ありません」以上の謝りがないのである。
せいぜい「大変」が付くくらいで、たいした違いはない。

ちょっと手続きに間違いがあった程度でも「申し訳ありません」、
予約していたのが内容が違っていて、気分の悪い思いをしても「申し訳ありません」
手落ちによる事故で多数の犠牲者を出しても「申し訳ありません」
ちょっとのことで最大級の謝りをしてしまうから、
本当に大変なときになればなるほど、ウソ臭くなってくる。

この裏側には、もちろん「申し訳ありません」って言っておけば、
とりあえず済むぞという安易な考えもあり、これが「申し訳ない」を連発し、
謝りを様式化し、陳腐化させてしまった最大の要因だとは思う。

しかし、そういった様式で言う「申し訳ありません」と、
本当に思っての「申し訳ありません」が一緒に見られてしまうのは残念だし、
後者の当人にとっては不幸だ。
受け手側にとってもある意味不快だし不幸だ。

せっかくへりくだって「謝る」という控えめで礼儀正しい文化があるのに、
様式化してしまったために、それが逆方法へ作用してしまっている。
伝えるという点では、一番大事なときに伝える言葉を持っていないというのは、
とても残念なことである。

だからいつも、不祥事の記者会見で謝る企業の人たちに、
空々しさとともに何かもどかしさも感じてしまう。

しかし、企業の「謝り」を様式化させたのは、世間でもあると思う。

企業の不祥事の記者会見は、プライベートのような、
素の状態ではない。

「謝れ」という世間からの見えない力も当然あるし、
当事者的にはとにかく謝らなければという焦りもある。

世間は「謝る」ということをやたら請求するし、
そのため当事者も「謝る」ことを重大なこととして、
過剰なくらい大げさに謝ったりする。
あまり大げさに謝られると、スタンドプレイに見えてしまう。
団体で土下座なんかされると、逆にふざけてるのかとさえ思う。

「まず謝れ」とばかりに無理矢理謝らせられて、
気持ちとは別歩きしている「謝り」が繰り広げられる。

なぜ、両者とも「謝る」にそこまで重きを置くのだろうか。
本来謝るのは、気持ちの表現であって、ことの終わりではない。
むしろ、事の始まり、通過点である。

まず、相手に対する気持ちを「謝る」ことで表現し、
それから起こしてしまったことの救済や償いの行動が始まるはずである。
大事なのは、そこであり、「謝る」のは当たり前のことだと思う。

当たり前のことを、ことさら重んじてしまうから、
謝れば終わりというようなことになってしまうのではないか。
もしくは、「謝る」を盛大な儀式にして
済ましてしまおうという意図もあるのかも知れない。

一般的に、公的機関など、後々まで責任を追及されない立場の人や、
なんらか救済される大企業などの「謝り」ほど、空々しい。
様式が肥大化しているからだと思う。
責任を追及されない人が「謝る」こと自体「謝る」の本質ではない。
この時点で、様式としての行為になってしまっている。

しかし、「謝る」のはそんなに仰々しいものではないはずだ。
本当に思っていればいるほど、染みいるように謝るはずだ。
時々そういう場面を見ることがある。

本当に思っていれば、その後のことに重きを置きたいはずだ。
記者会見などでは、求める方も過剰に求めるものだから、
ああなってしまうのかも知れないが、
本来の「謝る」から浮いてしまっているといつも思う。

しかし、礼儀正しい日本人の心の表現である「謝る」は、
もっと自然で素直で神聖な行為なのではないか。

2011.8.27